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井伊直弼と開国150年祭開幕記念式典

平成20年6月4日(水)13:30~
彦根城博物館能舞台
平成20年6月4日、井伊直弼と開国150年祭のオープニングとして、直弼の大老就任150年を記念した式典が彦根城博物館能舞台で開催されました。

午後1時30分からの式典を前に彦根城表門橋前にはたくさんの参加者・観光客が集まり、時代衣装に身を包んだひこねを盛り上げ隊が出迎えました。

まず、はじめに彦根鉄砲隊が彦根城博物館前の内堀土手で開幕記念演武を行いました。

その後、会場を彦根城博物館能舞台へ移しひこね第九オーケストラによる記念コンサートが行われました。

開式の辞に続いて、井伊直弼と開国150年祭実行委員会 北村昌造会長、井伊家第18代当主で彦根城博物館館長の井伊直岳氏、文化庁文化財部記念物課の三宅文化財調査官、滋賀県の嘉田知事がそれぞれ挨拶を行いました。

さらに、リレートーク「直弼を語る」では、4人の講演者がそれぞれの研究分野における井伊直弼について次のように語りました。

日米修好通商条約調印と直弼

彦根城博物館学芸史料課史料係長 渡辺恒一

安政5年(1858)6月19日(日付は旧暦、以下同じ)、江戸幕府とアメリカ合衆国との間で、日米修好通商条約が調印されました。条約は神奈川などの開港と貿易など、外国との人と物の交流を定めるもので、鎖国を終え、日本が近代化する起点となりました。井伊直弼は、この条約に実質的な幕府の最高責任者として関与しましたが、条約調印の過程で、天皇の許し(勅許)を得ずに条約調印を実行したことから、後世に「違勅の臣」として大きな非難を受けることになります。
当時の西欧列強国に対する外交意見には、積極的な開国論と鎖国・攘夷論とが両極にあり、中間に消極的な開国論(鎖国に戻ることも含む)が存在しました。直弼は、外国との軍事・技術の格差を正確に認識し、旧来の体制維持を重視したので、3つ目の立場をとりました。
幕府は、アメリカ総領事ハリスとの交渉の末、条約調印を決定し、孝明天皇の勅許を得ようとしましたが失敗に終わりました。この局面を打開するために、安政5年4月23日、直弼が幕府大老に就任しました。直弼の狙いは、将軍家世継ぎを徳川慶福(とくがわよしとみ)に定め、敵対する一橋派の勢力を退け、諸大名を条約調印の意見でまとめた上で、孝明天皇の勅許を得、7月27日の期限までに条約を調印するところにありました。しかし、早期条約調印を迫るハリスに押し切られ、6月19日に勅許を待たずに調印することになり、直弼の描いたプランは実現しませんでした。調印の当日、直弼は混乱し、調印手続きを誤ったと後悔し、大老職の辞意を側近に漏らすほどでした。条約調印後、一橋派の徳川斉昭(とくがわなりあき)らが勅許を得なかったことを激しく非難しました。政治抗争が激化し、ついには桜田門外における直弼暗殺に至りました。
幕府や直弼の条約調印の選択は、現実的かつ的確な判断であり、西欧列強の圧力をうまく乗り切ったと評価できます。しかし、明治維新期から戦前まで、天皇権威の上昇とともに、「違勅」が重大な罪とされるようなり、直弼への非難が高まります。違勅のレッテルが貼られ直弼像が歪められたところに、直弼の不幸があり、歴史というものの恐ろしさを感じざるをえません。

直弼の茶の湯

彦根城博物館学芸員 小井川 理

直弼は、父直中のもとで過ごした幼少期から、大名家の子どもに必要な素養として、茶の湯を身に付けたと考えられます。17歳で埋木舎に移った直弼は、石州流の茶の湯の研鑽に努め、31歳の年には、自ら流派を開くことを宣言するに至ります。埋木舎では、茶室「澍露軒(じゅろけん)」を開き、楽焼による茶道具制作を始めており、書物や先達に学ぶ知識に加え、自ら茶を点て茶道具を作る、実践を通した修練を重ねていました。
流派創立を宣言した翌年、直弼は32歳で世子となり、4年後には、13代藩主となります。そのことは、茶人直弼にとっても大きな転機でした。流派を限らず多量の茶書を収集して思索を深め、新たに石州流の茶人片桐宗猿(かたぎりそうえん)と出会い、彦根や江戸で頻繁に茶会を催すなど、点前の実際に即した茶の湯理論を構築していきます。茶会は、多くの茶人との交流の場となり、同時に後身の育成の意味を持っていました。茶道具にも自身の美意識を発揮し、藤原定家(ふじわらのていか)の和歌に取材して生まれた「月次茶器(つきなみちゃき)」や、日常目にする道具を、創意工夫によって茶道具に作り替える「見立て」の道具には、青年時代以来培ってきた素養と、茶道具に対する繊細な感覚、茶人としての目を常に失わなかった直弼の姿が垣間見えます。
長年の茶の湯研究による理論の深まり、茶会を通じた実践の蓄積、日々の営みの中で培われた彼なりの美意識が重層的に重なり合った上に、安政4年(1857)、43歳の年に『茶湯一会集』が誕生します。茶の湯の精神を語りつつ点前の実際や心構えを説く理論書であり、思想と知識、点前を不可分のものとして語るところに、直弼の茶の湯の特徴があります。冒頭に記される「一期一会」という言葉は、単なる精神論ではなく、直弼の身体感覚、心の機微、そして真摯な思索に支えられた言葉であるからこそ、茶の湯という枠を超え、現代を生きる私たちの心にも響く言葉と成り得たと言えます。

湖東焼と直弼

彦根市教育委員会文化財課長 谷口 徹

湖東焼は、江戸時代後期になって彦根で焼かれた焼物です。湖東焼は、城下の商人絹屋半兵衛によって始められましたが、13年後に彦根藩に召し上げとなり、藩の直営で維持されることになります。当時の藩主は12代の井伊直亮(いいなおあき)。彼は雅楽器の収集に代表されるように、美術品をこよなく愛好する人物でした。彼のもとで絹屋以来の高級品生産の方針はますます拍車がかけられることになりました。
8年後、直亮の後を継いで13代藩主になったのが直弼でした。直弼は「埋木舎(うもれぎのや)」での生活を送る頃から、楽焼に手を染めるなど焼物に強い興味をいだいていました。彼は藩主となるや直ちに窯の規模を拡大します。同時に職人の獲得と養成に力を注ぎました。職人の数は最盛期には50人を超えました。こうした技術陣営を背景に、やがて窯場では多くの逸品が焼成され、湖東焼の名はゆるぎないものとなり、黄金時代を迎えることになったのです。
黄金時代には、白く焼き締まった磁器を中心に、細やかで美しい優品が数多く焼成されました。それらの作品は、江戸時代後期の日本の焼物を代表する高い完成度を示していました。直弼は、こうした湖東焼の優品を、彦根を代表する特産品として、他の大名などへの贈答に用いました。また、政務の合間に精励した茶の湯でも、湖東焼の茶道具を自分の「好みもの」として制作させています。中には、直弼が自ら下図を描いて制作させた直弼好みの湖東焼も存在します。これらは直弼の美意識を垣間見ることのできる興味深い作品です。
しかし、黄金時代の幕切れは突然やってきました。直弼が桜田門外で暗殺されたのです。湖東焼はパトロンを失い、2年後に藩窯の歴史を閉じます。以後、再び民窯として維持されることになりますが、製品からはかつての湖東焼の面影がしだいに薄れていきました。

直弼を伝える

彦根市教育委員会市史編さん係長 小林 隆

桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、天皇の許可を得ずに通商条約に調印したことや、安政の大獄で反対勢力を処罰したことが問題とされ、直弼の政治が厳しく批判されるようになりました。直弼の評価がいちじるしく低下したことで、彦根の人たちは、自信を失い、長い間、劣等感に苦しめられましたが、そうした状況に甘んじていたわけではなく、直弼に対する思いを次世代に伝え、直弼に対する偏った評価を改める努力を続けてきました。
明治19年(1886)、井伊直弼の側近であった大久保章男(おおくぼあやお)が、直弼を偲び、御誕辰祭を始めました。大久保の死後は、士族たちがその行事を引き継ぎ、小学校児童や高等女学校生徒なども行事に参加するようになり、井伊直弼を敬う気持ちがたくさんの人たちに受け継がれていきました。
昭和時代に入り、井伊直弼と同じ時代を生きた人たちが姿を消しても、彦根の人たちは、直弼に対する思いが強く、真実を伝えようとする努力を続けました。直弼の死後に彦根藩士の家に生れた北村寿四郎(きたむらひさしろう)は、昭和9年(1934)に『世界の平和を謀る井伊大老とハリス』を発表して、薩摩・長州勢力によって直弼の評価がゆがめられていると主張し、直弼が通商条約の調印にあたって天皇の意向を無視するつもりではなかったことを明らかにしようとしました。井伊直弼没後80年を記念して設立された井伊直弼朝臣顕彰会は、直弼の独断的なイメージを払拭しようとして、国定国史教科書における直弼の記述の是正を文部省に要請しました。
明治から昭和にかけて彦根の人たちが井伊直弼の真実を伝え続けてきたように、私たちも、井伊直弼の実像を検証し、それを広く伝えるとともに、直弼の思いを踏まえて新しい彦根の文化を創造してゆければと思います。

最後にひこねお城大使とひこにゃんが「はじまり宣言」を行い、獅山向洋彦根市長がお礼の言葉を述べました。

会場には式典の参加者約230人にお集まりいただきました。たくさんのご参加ありがとうございました。

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