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井伊直弼の生涯

大名の子として生まれながら、世捨て人のような暮らしを送らざるをえなかった若き日から一転、彦根藩主となり、やがて江戸幕府の中心人物となった井伊直弼は、急変する時代に翻弄されるように生きました。その出生から暗殺によって命を落とすまでの直弼の生涯をわかりやすくご紹介します。

直弼の生い立ち

直弼は、文化12年(1815)10月29日、井伊家11代藩主直中の14男として「槻御殿」で生まれました。既に、直中は隠居し、藩政は20歳年上の兄・直亮(なおあき)が執っていました。 17歳の時、直中の死去を契機に槻御殿を離れ、尾末町の屋敷へ弟直恭(なおやす)と共に移り住むことになります。 直弼は、世の中の出世・競争から離れ、学問と文武に励むという気持ちを込めて、この屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けました。 藩主の子として生まれながら、直弼が藩主となる可能性はほぼありませんでした。当時、家督を継がない者は、他の大名家に養子に行くか出家するのが通例で、直弼にも養子の話があったのですが、まとまりませんでした。 直弼は「埋木舎」で32歳になるまで暮らしました。

直弼の性格

一旦、やり始めると、途中で諦めず、納得するまで徹底してやり遂げなければ、気のすまない性格だったと言われています。
埋木舎での直弼は、「睡眠時間は4時間で足りる」と、国学、洋学等の学問を極め、和歌、茶道、能、禅、槍術、居合術をはじめ、文武両道にわたる修行を積みます。和歌においては勅撰和歌集の形式にならい、自作の和歌集「柳廼四附(やなぎのしずく)」を編纂、居合では新心流から新心新流を開き、茶道においては石州流を経て一派を確立します。

直弼藩主になる

弘化3年(1846)、兄・直亮の嫡男直元(なおもと)が病死、32歳の直弼が養子となり、直弼の人生は激変します。彦根藩の跡継ぎとなり、井伊家を背負ってたつことになった直弼は、江戸に移り、他の諸大名との交流を深め、有力な譜代大名のなかで力を発揮していきます。
ペリー来航の3年前、嘉永3年(1850)に直亮が亡くなると、その跡を継いで直弼は13代目の藩主となりました。外国船がしばしば日本近海に現れ、幕府が各藩に警備を命じた際に、直弼は自ら警備の実体を見にいきます。彦根藩は徳川四天王であり、最強の藩兵と言われる家柄でしたが、外国の軍隊に太刀打ちできるはずがないことを、この時直弼は実際に肌で感じました。

鎖国の崩壊

嘉永6年(1853)、アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書を手に、東インド艦隊司令長官のマシュー・C・ペリーが4隻の黒船を従えて浦賀に来航し、幕府に開国と通商を求めてきました。浦賀は彦根藩の警備担当地区です。ちょうどこの時、直弼は彦根に帰国したばかりでしたが、旅支度をほどく前に江戸へ引き返さねばなりませんでした。
幕府は翌年、アメリカに下田と函館を開港すること、漂流民の救助と引渡し、アメリカ人居留地を下田に設定することなどを定めた「日米和親条約」を締結します。これに従うように、イギリスやロシアなどとも同じような条約が相次いで結ばれ、江戸幕府が250年間守ってきた鎖国体制が崩壊します。

直弼大老になる

安政5年(1858)、直弼は推挙されて大老となります。大老は、臨時に置かれる役職で、将軍の補佐役となる幕政の最高職です。幕府の責任が一手に直弼の双肩に委ねられました。直弼、44歳の時でした。
安政3年(1856)より、アメリカは下田に領事館を構え、赴任してきたタウンゼント・ハリスが通商を求めており、このまま先延ばしにすれば、いずれ戦争となる可能性があり、決断を迫られた直弼は、天皇の勅許を待たずに「日米修好通商条約」の締結に踏み切ります。これにより、神奈川、長崎、函館、新潟、兵庫の5港が開港され、直弼は、続けてイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも同じような条約を締結しました。後に「安政の五カ国条約」と呼ばれています。

安政の大獄

直弼は、開国においても、将軍の跡継ぎの問題でも、水戸藩の徳川斉昭を中心とする政治勢力と対立しました。そして、幕府に反対する人々の処断を行います。安政の大獄です。 
直弼は、「開国と富国強兵こそ日本が生きる道」として意見を述べていましたが、腹心の長野主膳には書簡で「開国は仕方ないが、国内では外国人を居留地に留め、報復するようなら打ち払うもよし」とのやりとりをしています。朝廷へも「従来の国法(鎖国)に戻すことが自分の本意である」という旨を告げていました。直弼の胸中にあったのは、開国か鎖国かの2択ではなく、理想としていた藩祖・直政のように徳川幕府を立て直すことでした。海外と平等に渡り合えるほど、幕府の力の回復に心血を注ぎ、秩序の回復を願っていたのです。

桜田門外の変

この日は、上巳の節句で、幕府の重臣は慶賀の祝いを述べるために登城することが決められていました。そのため、直弼も上屋敷から駕籠に乗って江戸城に出発しました。井伊家の上屋敷から江戸城の桜田御門はすぐ近くです。朝から季節外れの雪が降っていました。ちょうど直弼を乗せた駕籠が桜田御門にさしかかろうとしたとき、一発の銃声が鳴り響き、突如、水戸浪士を始めとする18人が行列に斬り込んできました。井伊家家臣たちもなんとかそれに応戦しましたが、直弼は、最初の銃弾が腹部を貫通し、動けなくなっているところへ刀を突き立てられ絶命したといわれています。直弼46歳でした。

安政の大獄がが始まる前に、直弼は絵師に自分の姿を描かせ、死を覚悟していたかのように和歌を書き残しています。

あふみの海  磯うつ浪の いく度か
御世に心を  くだきぬるかな

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