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井伊直弼ってどんな人?

直弼はどのような生い立ちで、どんな性格だったのでしょう? その生涯や人物像を、彦根城博物館発行の子ども向け解説書「井伊直弼ってどんな人」より紹介します。

1. 直弼のおいたち

大殿様のこども 

井伊直弼が生まれたのは、文化12年(1815年)10月29日。彦根城の一角にある「槻御殿[けやきごてん]」というお屋敷で生まれました。こどものころは鉄三郎と呼ばれていました。 父は井伊直中[なおなか]。彦根とそのまわりの地域を治める彦根藩の藩主でしたが、3年前に息子の直亮[なおあき]に藩主の地位をゆずり、直弼が生まれたころは、大殿様として槻御殿でくらしていました。 母お富の方は、江戸(東京)の町人の娘で、直弼がわずか5歳のときに亡くなっています。

槻御殿でのくらし

槻御殿(今の玄宮楽々園)

槻御殿には父や兄弟もくらしていたので、直弼は兄弟と一緒に庭で遊んだり、父の趣味だった「能」を見たり練習をすることもありました。また、行事の時には、御殿で殿様(兄直亮)にあいさつしたり、父といっしょに家来の家に行きました。 直弼は、いつも大殿様のこどもらしく振る舞わないといけませんでした。そのため、いろいろなことを教えてくれる養育係の家臣がそばにいました。

直弼の兄弟

直弼にはたくさんの兄弟がいましたが、槻御殿でいっしょに大きくなったのは、兄直元[なおもと]・直与[なおとも]と弟直恭[なおやす]だけでした。実際は4人兄弟のようなものだったのです。

大名のこどものすすむ道

大名のこどもは、父のあとをついで大名になれるのは1人だけで、ほかの男子は、あとつぎのいない家の養子となるのが、社会で活躍できる方法でした。 直弼が生まれたとき、すでに兄直亮が彦根藩の殿様となっており、ほかの兄弟も次々に養子となって、井伊家を出ていきました。しかし、直弼だけは、養子となる話はあっても実現せず、彦根藩からわずかな生活費をもらって暮らすしか道はありませんでした。

埋木舎での暮らし

埋木舎

直弼が17歳から住んだのが彦根市尾末町にある「埋木舎」という屋敷です。埋木舎とは、世の中の出世・競争とは離れて、この屋敷に埋もれて、学問・文武の芸に励もうという気持ちをこめて、直弼がつけた名前です。

2. 勉強熱心な直弼

直弼は幼いころから、読み書き、道徳となる儒教、剣道、弓道、乗馬などを彦根藩の学者から学びました。これらは、武士にとって大事な科目です。 これに加えて、埋木舎に住んだ17歳から32歳のころには、和歌や茶の湯、居合(剣術の一種)をはじめとする文武両道にわたる修行をつみました。 直弼は、いったんやり始めたら、途中でやめたりせず、納得するまでやりとげる性格だったので、興味あることを熱心に勉強しつづけました。

禅の修養

直弼は、13歳ごろから佐和山のふもとの清凉寺に通い、お寺のお坊さんを師匠として禅の修行をしました。禅とは、坐禅などで心の迷いをなくし、真理をつかもうとすることです。熱心に修行・勉強を続けた直弼は、ついに31歳のとき、悟りを得たと認められて証明書をもらいました。 直弼のものの考え方の基本には、禅を通して身につけた強い精神力や決断力があります。

和歌と古典研究

直弼がよんだ和歌(直弼筆)

直弼は、日本で古くから歌われた5・7・5・7・7の合計31文字の歌「和歌」をたくさん作りました。自分がよんだ歌をまとめた和歌集「柳廼四附[やなぎのしづく]」には千首以上もの和歌がのっています。また、日本の古典や国学(日本の文化や精神を明らかにしようとする学問)も本格的に学びました。

直弼と茶の湯

茶室

茶の湯とは、抹茶をたてて客をもてなすことです。武士はみんな、その作法を身につけていました。 直弼は、ほかの人より熱心に茶の湯について考えました。昔の人が書いた本を調べたり、くわしい人から聞いたりして茶の湯の勉強を重ねました。そして、自分の考えをまとめて、ひとつの流派をつくり、家族や家来に教えるまでになりました。

一期一会 —心を大切にする茶の湯—

直弼の考える茶の湯を一言であらわしたのが「一期一会」という言葉です。一度の茶会での出会いは一生に一度だけのものだから、心をつくして、出会いの時を大切にしようという意味です。直弼がまとめた『茶湯一会集[ちゃのゆいちえしゅう]』という本に書いてあります。

直弼の作った茶道具

茶の湯では、専用の道具を使います。それを茶道具といいます。 直弼は、やきものの作り方を習って、自分で茶道具を作りました。蓋置は、お湯をわかす釜の蓋をのせる道具です。ほかにも、茶碗や皿をやきもので作りました。 また、直弼は、ふだんから自分のまわりにあるもので茶道具として使えるものはないか、と探していました。多賀大社のお守りの「お多賀杓子」を工夫して、お茶菓子をのせる器に作りかえています。

直弼の作った蓋置

多賀杓子から作った菓子器

3. 彦根藩の殿様

直弼、大名となる

直弼が32歳のときに、突然、藩主の直亮から江戸へ来るようにと言われました。直亮のあとつぎとなっていた兄直元が亡くなったため、直弼をあとつぎとするためです。 江戸へ着いた直弼は、大勢の御供をしたがえて江戸城に登城し、将軍徳川家慶に対面しました。埋木舎にいたころとは全く立場が変わったのです。この後、大名の見習いとして、江戸で暮らしました。 直弼36歳のときに直亮が亡くなり、直弼が彦根藩の殿様となりました。

井伊家の家がら

井伊家の先祖は、江戸幕府を開いた徳川家康の家来だった井伊直政で、そのころ一番強い軍隊を率いていました。その時から、将軍を近くで守るのが井伊家の仕事でした。幕府で重要なことを考えるときには、大老という一番責任ある役職につくこともありました。

直弼の政治

殿様になった直弼が最初にしたことは、直亮の残したお金を家来や彦根藩に住む人に分け与えることでした。このときの金額は1年間の彦根藩の収入と同じくらい大きなものでした。 また、殿様となって彦根に帰ってくると、村人の生活を見てまわりました。何年もかけてすべての地域に行き、生活の苦しい人や病人に救いの手をさしのべています。

殿様の住まい

復元[ふくげん]された彦根城表御殿(今の彦根城博物館)

殿様は、参勤交代という制度のため、彦根と江戸で1年ずつくらします。彦根では、彦根城のなかにある表御殿という建物に住んでいました。ここは、家来が登城してきて政治をする場所でもありました。 江戸にいるときは、江戸城桜田門の近くにある屋敷に住んでいました。

4. まわりの人々

直弼の家族

井伊直憲[なおのり]

大名は、ほかの大名の娘と結婚する決まりだったので、直弼は藩主になってから、亀山藩(京都府亀岡市)の松平信豪[まつだいらのぶひで]の娘昌子[まさこ]と結婚しました。昌子との間にこどもはいませんでしたが、埋木舎に住んでいたころからそばにいた彦根藩士の娘との間に直憲[なおのり]・弥千代[やちよ]ら15人のこどもが生まれました。このうち成人したのは7人だけでした。

信頼する家来

犬塚外記[いぬづかげき]は、直弼のこどものころから近くにいて、何でも相談できる相手でした。直弼が江戸に出てきたあと、彦根に残した娘の世話を彼に頼んでいます。 長野義言[ながのよしとき]は日本の古典や和歌の学者です。直弼と同い年でしたが、直弼は学問にくわしい義言を尊敬しました。直弼が藩主となると、義言は家来になって直弼のために働き、安政の大獄のときには京都に行って、直弼に反対する人を調べました。

仲間の大名

会津藩主松平容敬[まつだいらかたたか]や高松藩主松平頼胤[よりたね]は、江戸城で一緒に行動することが多く、直弼に作法を教えてくれた先輩です。その関係で、頼胤の息子頼聰[よりとし]と直弼の娘弥千代は結婚しました。

まわりの人から見た直弼

大名は、ほかの大名の娘と結婚する決まりだったので、直弼は藩主になってから、亀山藩[かめやまはん](京都府亀岡市)の松平信豪[まつだいらのぶひで]の娘昌子[まさこ]と結婚しました。昌子との間にこどもはいませんでしたが、埋木舎に住んでいたころからそばにいた彦根藩士[はんし]の娘との間に直憲[なおのり]・弥千代[やちよ]ら15人のこどもが生まれました。このうち成人したのは7人だけでした。

5. 武士の道具

武士にとって、戦いの道具はとても大事なものでした。 平和な時代でも武士の身分をあらわすシンボルとして大切にしました。 刀[かたな]、鎧[よろい]と兜[かぶと]、弓矢、馬に乗るときに使う鞍[くら]や鐙[あぶみ]には、実際に使うものと、模様や形を工夫して美しく飾ったものがあります。大名は立派な道具をそろえて持っていました。

直弼の鎧

直弼の鎧

彦根藩では戦[いくさ]の道具をすべて赤い色とするように決めていました。これは、戦場で自分たちの強さをあらわす工夫です。「井伊の赤備え[いいのあかぞなえ]」と呼ばれました。 兜の金色の長い角は「天衝[てんつき]」という形です。天衝が頭の横から出るのは殿様用の兜だけです。直弼の鎧は、ほかの殿様のものよりも胴回り[どうまわり]が大きめなので、直弼はがっしりとした体格だったことがわかります。

直弼の刀

殿様は刀と鞘を何本も持っていて、時と場合によって使い分けました。江戸城へ行く時は、飾りのない黒い鞘を持つ決まりでした。直弼のころは少し飾りをつける人もいましたが、直弼は決まりをまじめに守っています。

直弼の使った刀

6. 直弼の印

井伊家の印-橘紋[たちばなもん]・井桁紋[いげたもん]

それぞれの家には、その家をあらわすマーク(家紋)があります。井伊家の家紋は橘紋です。橘はみかんの仲間で、白い花が咲いた後に実がなります。この実と葉をデザインした家紋は、着物や道具など様々な所に使われています。このほか、「井」の字に似た井桁の印を使うこともありました。

橘の家紋

井桁の家紋

いろいろな呼び名

直弼は、いくつかの名前を持っていました。「掃部頭[かもんのかみ]」という名前は、井伊家の殿様が代々使った名前で、直弼も殿様になってからこの名で呼ばれました。そのほかに、「柳王舎[やぎわのや]」「宗観[そうかん]」という別名も持っています。これは、和歌を詠んだり茶の湯をするときに使う名前でした。

直弼のサイン

直弼のサイン(「柳」をもとにした花押)

昔の人が書いた手紙や作った道具には、「花押[かおう]」というサインが書いてあることがあります。花押は、自分で書いたり作ったあかしとなるものです。 直弼の花押は2種類あります。ひとつは、武士・大名としての書類に見られるもので、「弼」の字をデザインしました。もうひとつは、自分で作った和歌や茶道具に書き入れたもので、「柳」という漢字をもとにしています。直弼は、風になびいても折れない強さを持つ柳の木が気に入り、別名やサインに使っています。

7. 黒船にゆれる社会

黒船がやってきた

直弼が藩主になって3年後の嘉永6年(1853年)6月3日、4艘の黒い船が浦賀(神奈川県)の沖合いに姿をあらわしました。ペリ-がひきいるアメリカ合衆国の軍艦でした。ペリーが日本に来たのは、アメリカの船が太平洋をわたって中国へ向かうときにとまる港を開くことや、日本と貿易をするためでした。ペリーは幕府と話し合って、日本とアメリカは日米和親条約を結び、下田(静岡県)と函館(北海道)の港でアメリカの船が航海に必要な水や食べ物などを手に入れることができるようにしました。 この時代の日本の人々は、これまでに見たことのない、アメリカ艦隊の蒸気船[じょうきせん]の大きな姿に、強い力や進んだ技術を感じ、ショックを受けました。

ペリー浦賀来航図

開国についてのさまざまな考え

開国を求めるアメリカにどう返事するか、武士だけでなく、いろいろな人が考えました。当時、大きく2つの考え方がありました。1つは、これまでどおり外国船が来たら追い返そうという考え。もう1つは、強い外国と交流して進んだ技術を取り入れようという考えでした。 直弼は、外国の方が強いから、今は言うことを聞いて開国するしかないと考えていました。

8. 大老の政治

直弼、大老となる

さらに、日本との貿易を強く望むアメリカは、外交官ハリスを下田に滞在させ、幕府と話し合いをすすめました。幕府では、アメリカと貿易しようという考えが強くなりましたが、京都の朝廷が、孝明天皇[こうめいてんのう]を中心に猛反対したため、日本の考えはうまくまとまりませんでした。 また、同じころ、将軍のあとつぎ選びで、幕府や大名が2つに分かれ、もめていました。このような幕府のピンチに、直弼は幕府の大老となりました。安政5年(1858年)4月23日、直弼44歳の時のことでした。

江戸城での直弼の態度

大老となった直弼は、毎日、江戸城へ行き、老中たちの話し合いに加わりました。自分の意見をはっきりと言う直弼の前向きな態度に、まわりの人がとてもおどろいたと当時の記録に書かれています。

日米修好通商条約を結ぶ

直弼ら幕府のリーダーたちは何度も話し合い、この時の世界の様子や、外国と日本との武力の差などを考えたすえに、安政5年(1858年)6月19日、日米修好通商条約を結びました。この条約では、自由に貿易をおこなうために神奈川・長崎・兵庫・新潟の港を開くことなどを約束しました。 直弼は、条約を結んだ幕府の一番のリーダーであったため、朝廷や大名の一部の人々から、天皇のゆるしをうけずに条約を結んだと責められました。これが原因となり、このあと、大きな政治の争いがおこりました。

ひそかに出された天皇の命令

開国に反対する水戸藩主徳川斉昭[とくがわなりあき]たちは、日米修好通商条約が結ばれたことに抗議し、自分たちの意見も取り入れられるように、京都の公家に頼んで、直弼の政治を批判する天皇の命令書を出させました。 当時、大名は将軍の家来であり、天皇や公家と直接政治の話をしてはいけない決まりがありました。斉昭はそれにそむいたのです。そのため、直弼は天皇の命令を出すために働いた人を逮捕することにしました。

安政の大獄

直弼は、長野義言に京都の様子を調べさせ、水戸藩の家来や、幕府に反対する考えを広める吉田松陰[よしだしょういん]など多くの人を捕らえました。取り調べの結果、8人を死刑に、100人以上を処罰するきびしい処分をしました。 また、水戸藩が持っている天皇の命令書を返すように、直弼は水戸藩に強く迫りました。水戸藩としては、大事な命令書を絶対に返したくありません。 こうして、水戸藩の家来たちの中に、直弼のやり方は絶対に許せないので、直弼を殺してしまおうという考えがおこりました。

安政の大獄に対するさまざまな考え

安政の大獄とは、直弼の政治に反対する行動をとる人々を徹底的に調べて、厳しく処罰して、幕府の力を示そうとしたもので、吉田松陰などの有能な人を殺した直弼のやり方を批判する考えがあります。 一方で、政治の責任ある立場から、日本の国全体のことを考えて開国を決断したことを評価し、政治に反対して法律に違反する人をとらえて罰を与えたのは当然という考えもあります。

9. 直弼の最期

死を覚悟して

安政の大獄が一段落すると、直弼は自分の姿を絵師に描かせ、先祖のお墓がある清凉寺(彦根市古沢町)に納めました。 絵の上には、そのときの気持ちをよんだ和歌を書きました。

あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世に心を くだきぬるかな

—近江の海(琵琶湖)で磯に何度も打ちつける波のように、私も世の中のために心を尽くしてきたなあ— 大きな仕事をやりとげた思いと、この後何があってもそれに向かおうという思いがこめられています。 自分の姿を絵に残したのは、死を覚悟していたからでしょうか。

桜田門外の変

安政7年(1860年)3月3日、江戸城で桃の節句の儀式がおこなわれるため、午前9時ごろ、直弼は駕籠[かご]に乗って屋敷を出発しました。しばらく進んで、行列の先頭が桜田門近くにさしかかったとき、1発の鉄砲の音が鳴りひびき、それを合図に18人の侍が直弼の駕籠をめがけて襲いかかってきました。彼らは水戸藩の家来たちで、直弼のやり方に反発して直弼を殺してしまったのです。駕籠のまわりには直弼の家来がいましたが、前夜に雪が降っていたので、刀を袋で包んでいて、すぐには刀が抜けませんでした。それでも家来たちも敵と戦い、8人が死に、多くのけが人をだしました。

桜田事変絵巻

悲しみにくれる彦根の人々

天寧寺(彦根市)の供養塔

直弼が殺されたことは、急いでもどってきた家来によって4日後に彦根に伝えられました。誰もが悲しみ、水戸藩を討とうと江戸に向かう人もいました。 直弼の遺体は東京の豪徳寺(東京都世田谷区)に葬られましたが、殺されたときに流した血がしみこんだ土は彦根に運ばれ、天寧寺(彦根市里根町)に埋められ、供養塔が建てられました。

直弼が残したもの

横浜に立つ直弼像

直弼の死後、国全体が動乱となり、やがて江戸幕府は滅びましたが、外国となかよくして進んだ文明を取り入れようという考えが広がりました。 日本の将来を考えて、戦争をせずに開国を決めた直弼を、彦根の人たちは誇りに思い、直弼の銅像を彦根城の一角と横浜港を見下ろす山に建てました。直弼は今も、彦根と開国によって栄えた港町から世の中を見つづけています。

直弼の墓を守った遠城謙道

彦根藩の家来だった遠城謙道[おんじょうけんどう]は、直弼の恩にむくい、その墓を守ろうと、武士の身分を捨てて僧になりました。豪徳寺(東京都世田谷区)の中に住み、亡くなるまで37年間、毎日直弼の墓を掃除して暮らしました。このような謙道の功績をたたえる石碑が、彦根城内の直弼像の横に建てられています。

彦根城博物館編『井伊直弼ってどんな人?』より

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