藩主に就くのぞみは薄く、また他藩への養子縁組もまとまらなかった青春時代の直弼は、与えられた控えの屋敷を「埋木舎」と名づけ、文武の修行に励み「なすべき業(すべ)」に全力を傾ける日々でした。また仏門教義の研究にも熱心で、仏門への憧れももっていたようです。
そんなとき、長浜の大通寺から直弼を法嗣に迎えたいという内願書が彦根藩に提出されます。
不遇の身にとって願ってもない話に、直弼はいったんはこの養子入寺を志願しています。しかし当時伊井家では、直弼の兄で跡継ぎである直元が病に臥せっており、兄にもしものことがあった場合には直弼しか後継者がいないという状況であったために、結果、不調に終わります。
吟松寺に残るこの書状は、弘化2年(1845年)6月に直弼から、大通寺の寺侍である佐藤周太、同市曽根町の唯教(書状では行)寺・米原市柏原の勝専寺・長浜市宮司町の満立寺・吟松寺の四か寺に宛てて出されたものです。
先達てより段々其方達の深切、誠にもって観入候、且浅からず心配を懸け、呉々も気の毒存じ入り候えども、何分一条不調につき、此方に構い無く御坊所御為、しかるべきよう取り計らい専一存じ入り候、今分にては、何分力に及ばす候えども、追って時世も相替り候はば、今度の因縁もこれある事ゆえ、旁もって御坊所の御義は、急度存寄これあり候間、左様承知たもうべく候、我等も実もって此度の一条、残念至極存じ入り候もの也、
弘化二年六月 柳王舎主人
佐藤周太どの
唯行寺
勝専寺
満立寺
吟松寺
書状では、佐藤周太や4か寺に、入寺に力を尽くしてくれた礼と、不調に終わった詫びが記されています。また、時勢が変われば、今回の縁もあることだから、きっと何がしかのことはあるだろうので、忘れないでほしい。今回の一件がうまくいかなかったことを本当に残念に思っている、と本心をしたためています。
差出人の「柳王舎主人」は、直弼が好んで使った自身の号です。
書状が残る吟松寺や、ほかの3か寺は、現在の大通寺の責任役員にあたる役職をつとめていたと思われ、こうした手紙が直弼から下されたと考えられています。



