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直弼二十二景

第五景 湖東焼窯跡

湖東焼は、江戸時代後期から明治中頃にかけて彦根で焼かれた焼物です。
創始者は、城下の古着商人絹屋半兵衛。行商で出向いた京都で見かけた焼物に興味をもち、窯を起こすことを決意、知り合った伊万里職人を彦根に呼んだのが始まりです。文政12年(1829年)に芹川下流に窯を築きますが、条件が悪く、翌年、佐和山山麓の餅木谷に窯場を移転し、本格的な生産が始まりました。瀬戸などからも職人を集め、良品を産出するようになったころ、当時の藩主直亮の目にとまり、天保13年(1842)年、藩の直営で維持されることになります。目利きの美術品コレクターであった直亮のもとで高級品を生産すると共に、藩の財政を潤す地場産業としても育成が進められました。
湖東焼の黄金時代を築いたのは直弼です。嘉永3年(1850年)、直亮の後を継いで13代藩主になるや、窯の規模を拡大します。直弼は「埋木舎」での青春時代から、楽焼をたしなむなど焼物には強い思い入れがありました。湖東焼の経営システムを改革すべく、最良の原料や燃料を使わせ、各地から優れた職人を招き、新たな人材育成にも力を注いでいきました。
白く焼き締まった磁器を主体に金襴手、色絵、染付、青磁など細やかで美しい逸品が数多く焼成されたのが、直弼の時代の湖東焼の特徴です。江戸時代後期の日本の焼物を代表する高い完成度を示し、直弼は、優品を彦根を代表する特産品として、他の大名などへの贈答に用いました。
また、直弼が自ら下図を描いて細かく注文し、制作させた直弼好みの湖東焼も存在します。これらは直弼の美意識を垣間見ることのできる興味深い作品です。
黄金時代の幕切れは突然でした。安政7年(1860年)の桜田門外の変で、直弼は死去。世情不安のあおりで窯場の職人は離散してしまったことなどから、2年後の直憲の時代に、藩窯の歴史を閉じます。以後、民窯として存続されましたが、製品からはかつての湖東焼の面影がしだいに薄れ、明治28年には廃絶してしまいました。
わずか70年足らずの歴史や窯場跡の詳細が明らかになっていないことなどから「幻の焼物」と表現されることもある湖東焼ですが、近年地元を中心に湖東焼を復興させようという取り組みも活発になっています。

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