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直弼二十二景

第七景 長野義言屋敷跡

直弼の生涯を語るにあたって欠かせない存在が、長野義言(よしとき)です。
埋木舎時代には国学の師として、そして藩主・大老時代には優秀なブレーンとして直弼政権を支えました。
彦根市立花町に残る義言の屋敷跡は、1853年(嘉永6年)、直弼に彦根藩士として登用された際に与えられたものです。

義言は直弼と同年の1815年生まれで、のちに主膳と改名しています。本居宣長派の国学を学び、伊勢、美濃、尾張などを漂泊しながら国学や和歌などを教授。天保12年(1841)の冬に近江に入り、翌年2月に旧山東町(現米原市)志賀谷で、国学塾「高尚館」を開きました。
義言の噂をかねがね聞いていた直弼は面会を切望し、開塾の翌年に叶います。当時の住まいであった埋木舎で三晩続けて語り明かした直弼は、義言の学識と人柄に敬服し、師弟の関係を結びます。

1850年(嘉永3年)、直弼は兄の死を受けて彦根藩主に就きます。その3年後、義言は彦根の屋敷に住まいを移し、藩校・弘道館の建て直しなど、藩政改革に取り組んでいきます。直弼の主膳に対する信頼はあつく、公私にわたって意見を仰いでいたことが、書簡などからわかっています。
安政5年(1858年)に大老となった直弼のもとで、義言は日米修好通商条約問題に関する朝廷工作や安政の大獄を事実上すべて取り仕切っていくことになります。江戸や京都を行き来し、反幕府派を次々に粛清していきました。
そんななか、直弼が桜田門で刃に倒れます。直弼政権の批判は、義言にも向けられていくことになるのです。

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