文久2年8月27日(1862年9月20日)、直弼の腹心だった長野主膳(義言)が彦根藩の藩命により四十九町(現・城町一丁目)の牢屋前で斬首されました。
亡骸は牢屋の前庭に埋められたそうで、主膳の門人であった中村長平がその上に石の地蔵尊を祀ったのが「義言地蔵」です。
米原市志賀谷に国学塾を開いていた主膳と面会を果たした直弼は、主膳の教養と人柄に感銘を受け、以後師と仰ぎます。藩主に就いてからは、主膳を彦根藩士に登用。主膳は藩政改革に協力しながら直弼を支えていきます(第七景参照)。
主膳は、紀州和歌山藩とも密なつながりがあったとされ、和歌山藩家老の水野忠央らと協力して直弼を大老に押し上げます。
大老に就任した直弼は非戦・開国・海防充実・貿易拡大の思想のもと日米修好通商条約に調印し、また紀州徳川家・徳川家茂を将軍の後継ぎに決定します。主膳はこれらの諸策に反対する一橋派や尊皇攘夷派の排斥を直弼に進言し、安政の大獄が断行されました。主膳は「影の大老」「京都大老」としておそれられると共に、攘夷派の反感を集めることになります。
安政7年(1860年)3月3日、桜田門の外で直弼が水戸藩士の刃に倒れた後も、その遺志を継いで尽力します。しかし安政の大獄で失脚した一橋派を登用するなどして、直弼政権を清算しようとする幕府の「文久の幕政改革」で、彦根藩は歴代の役職であった京都守護職を罷免され、10万石が没収されます。主膳は14代藩主・直憲により逮捕、投獄され、3日後に斬首・打ち捨ての刑に処されるのです。藩が直弼派の勢力を一掃したことを明確に示すが故の極刑であり、この処刑があったからこそ、彦根藩そのもの対しては比較的軽い処罰で済んだともいわれています。
主膳は次のような辞世を残しています。
飛鳥川 きのふの淵は けふの瀬と かはるならひを 我身にそ見る




