玄宮園に隣接する金亀児童公園に、直弼の銅像があります。明治時代、直弼の遺徳を顕彰しようとする旧彦根藩士らによって建立されました。
直弼の死後、公に直弼への追慕をあらわしたり顕彰することは困難な風潮がありました。明治20年代になって旧彦根藩士らの間で大老銅像建碑委員会が設けられ、東京に銅像建立を働きかけます。しかし、直弼が天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を締結した経緯が、明治政府からの非難の対象となっていたこともあり、政府の許可を得ることができませんでした。
一方で、開港50周年を迎えようとしていた横浜では、開港の生みの親でもある直弼を顕彰しようとする動きが盛り上がました。直弼の宮位にちなんで、掃部(かもん)山と名づけた地に直弼像が建立され、明治42年(1909)開港 50周年記念式典で像の除幕式が挙行されました。翌43年(1910)、直弼没後50年に、彦根でも護国神社近くにあった尾末公園に直弼像が建立されました。彦根の直弼像は、その後、公会堂前(現在の金亀児童公園付近)に移築。戦時中に銅供出のため一度取り壊されましたが、昭和24年(1949)に護国神社境内に再建され、昭和33年(1958)現地に移されました。
銅像は、正四位上、左近衛権中将という井伊直弼が天皇からいただいていた位階に相当する正装で立っています。 この姿から、直弼は天皇に仕える立場として、国政を率いたことによる位の高さがわかります。直弼の威信回復を願う人々は、直弼は決して天皇を無視して開国の条約を結んだのではないとの姿勢を表明するためにこのような姿で顕彰したといえるでしょう。

