直弼二十二景

第十景 福田寺

井伊家の庶子は仏門に入ることも多く、本願寺との縁が深いのが特徴です。本願寺の連枝寺である福田寺の22世・摂専は、直弼の従兄弟にあたります。直弼から摂専への書簡約80通が残るなど、和歌の交換を通じた親友であり、仏教信仰上では師弟の関係にもありました。
直弼は、信仰心の篤かった父・直中の影響もあり、幼い頃から仏道に関心をもっていました。庶子として尾末町の屋敷を与えられ、埋木舎と名づけたその住まいで、文武の修行を「なすべき業」として励んだ青年時代の直弼は、仏門教義の研究にも熱心でした。
埋木舎での生活が10年を過ぎようかとする天保12年(1841)に摂専へ宛てた書簡のいくつかからは、摂専へ全幅の信頼を置きつつ、仏門にあることを憧れ、羨む記述が見られ、また、出家の望みも抱いていたことがわかります。藩主に就く望みもなく、他藩への養子縁組も叶わなかった直弼にとって、庶子としての自身の処遇を仏の道に見出そうとしていたようです。その数年後に長浜の真宗寺院・大通寺から直弼を法嗣に迎えたいとの嘆願書が出され、直弼も入寺を志願しますが不調に終わっています(第4景参照)。

また、直弼の計らいにより、摂専は後室として京都の公家であった摂政関白右大臣・二条斎敬の鑈子(かねこ)を迎えています。鑈子は、明治天皇皇太后の従妹でもあり、明治11年(1819)明治天皇が北陸行幸の帰途で福田寺に立ち寄られたとき、廃城令が出ていた彦根城の保存を進言。解体のための足場までできていた彦根城を間一髪で救ったと伝わっています。

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