直弼二十二景

第十三景 清凉寺

禅堂

直弼は信仰心の篤い父直中の影響をうけ、幼少期から仏道に関心をもち始めました。清凉寺で禅の修養を始めたのは13歳ごろからです。21世・道鳴、22世・師虔、そして23世・仙英の3代の住職に学びました。参禅道場には、直弼が使っていた座禅を組むための椅子が遺されています。

清凉寺は直弼の父直中が復興を発願したのち、隆盛期を迎えました。歴代藩主の忌日に営まれた法要には、藩主をはじめ庶子も参拝しており、直弼もそうした法要を通じて道鳴と出会い、曹洞禅との関わりを深めていったようです。
17歳からは師虔に学び、当時の住まいであった埋木舎に座禅の間を設けるほどでした。師虔が死去したときは「誠に闇夜のとぼし火をうしない、盲人の杖なきここち」という書状を、福田寺(第十景参照)の摂専に送っています。直弼にとって師虔は心の支えであり、その存在を失ったことで悲嘆にくれていたことが伺えます。
師虔亡き後、鳥取の寺から迎えられた高僧仙英に見守られながらさらに修養を重ね、悟りを開いたことを仙英から認められます。この悟りを開いた時期は埋木舎時代とも、世嗣になってからともいわれており定かではありません。

井伊家の人々の位牌が収められている寂光堂に直弼の位牌も安置されています。
大老として日米通商修好条約を締結し、行った安政の大獄は、不安定な世情を呼び起こしていました。不穏な空気を直弼は感じとっていたのでしょう。仙英と相談しながら自ら戒名をつけ位牌をつくり、さらに自身の肖像画に歌をしたため(第二景参照)、清凉寺へ納めました。位牌に記された戒名は「宗観院殿柳暁覚翁大居士」。
桜田門外で水戸藩士の刃に倒れたのは、肖像画を納めたわずか3ヶ月後のことでした。

本堂

直弼公が使っていたとされる椅子

禅堂

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