湖東焼は、江戸時代後期に絹屋半兵衛が思い立ったのが始まりです。半兵衛は試行錯誤を繰り返しながら技術を向上させていきましたが、井伊直亮は、絹屋窯を召し上げ藩の直営とします。そして、湖東焼は独自の技術を磨きながら最高水準を極め、直弼の代に黄金期を迎えます(第五景参照)。
直弼は「埋木舎」時代から茶道や焼き物に興味を持ち、「赤絵」に関する改良を試みたり、献上品「茶道具」には丁寧な絵を添えて作家の銘を入れる位置までも指定した注文書を書くほどでした。藩主になると直弼はまず、窯を拡大し各地から名工を召し抱え、人材の育成に努めます。幸斎、鳴鳳という優秀な絵付師も彦根に招かれています。
しかし藩窯の経営は苦しく、直弼は嘉永5年(1852)、藩内の豪商、藤野四郎兵衛に経営を委託しますが、2年間で一千両以上の損失を招くことになり、四郎兵衛は湖東焼の委託経営を辞退しました。 それでも直弼は、藩窯存続について普請奉行から論議が出るなか更に積極策をとり、拡大と高級品の増産を計りました。
直弼は、湖東焼の創始者としてその功績をねぎらい、半兵衛に「伊藤」の姓を与えています。

