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直弼二十二景

第二十二景 彦根城天守

直弼が12代直亮の跡を継いで藩主に就いたのは嘉永3年(1850)、32歳のときです。
彦根藩の財政は逼迫(ひっぱく)し、専制的であった直亮に対して周囲の不満がくすぶっていました。直弼は、井伊家代々の家風を守り、家臣らとの協力のなかで藩政改革に取り組みます。
藩では4代直興以降、領内の巡視が家督を継いだ者の儀礼となっていました。彦根と江戸を行き来していた直弼も、彦根に戻ったときを利用して領内の巡視を行いました。

吉田松陰が直弼が藩主となった時に詠んだ歌があります。
嘉永4年(1851)9月23日、松陰の兄、杉梅太郎に宛てた書簡で、松陰22才の頃のものです。

彦根今侯の御歌
こたび国入の折節、領内の民共数多(あまた)出迎へけるをみて、馬上にてかく読み侍る、

掩(おお)ふべき袖の窄(せま)きをいかにせん
行道しげる民の草ばに

恵まではあるべきものか道のべに
迎ふる民のしたふ誠に 

(『吉田松陰全集』7巻、嘉永4年(1851)9月23日)

松陰は、直弼のことを、非常に民に対して哀れみの心を持っている。そして、藩政も評価すべきものがあると記しています。

また、イギリスの詩人、バートン・マーチンが直弼を思い書い詩が伝わっています(ただ、バートン・マーチンについては何一つ資料が残されていません)。

彦根城にのぼると
小人には琵琶湖がみえる
大人には日本がみえる
偉人には世界がみえる

今から150年前、開国か攘夷か、幕府の意見は二分し、朝廷を巻き込み、将軍継嗣の問題と絡みながら、困難極まる決断を迫られていました。
井伊直弼は、大老として250年間続いた鎖国の時代と決別し、世界に門戸を開く決断をしました。
今一度、吉田松陰の歌、バートン・マーチンの詩を胸に彦根城に登ると、今までとは違った井伊直弼の姿が浮かんでくるかもしれません。

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